著:下川耿史
日本人と混浴の関係について調べた本である。混浴の歴史は長い。日本の入浴の歴史における変化は、混浴からの派生であるといってもよいという。
江戸末期に日本に来た外人に好奇の目で見られたことなどから、幕府やその後の明治政府は混浴を禁じる。戦後の1948年には売春禁止法が成立し、それも混浴を禁止する根拠とされた。つまり、混浴を恥ずかしいと思うようになったのは比較的最近のことで、そうなる前は混浴が入浴の普通の形であったし、近代に入ってからも地方を中心に混浴の習慣は根強く残った。
縄文人が温泉を利用していたことを示す遺跡があるというが、記録に残る最古のものとしては、常陸風土記(721年)と出雲風土記(733年)に混浴の記述が登場する。
歌垣(うたがき)といって、男女が一緒に飲食して歌を交わしながら気に入った相手と性的に交うことがセットになっている場合もあった。仏教ではお湯の効能が説かれていたため、伝来した仏教と温泉文化が結びつき、東大寺や興福寺では「功徳湯」として庶民に風呂が提供された。平安期に入ると、そこが増えた坊さんと尼さんの交流の場にもなって、797年に日本初の混浴禁止令が出た記録もあるという。
高級貴族の屋敷に湯殿が登場するのは1000〜1100年の間。係りの女性がそこで主人の世話をすることがはじまり、主人との関係も生じた。町湯も平安時代に普及したが、混浴がほとんど。温泉人気は旅とも結びつき、貴族を中心に流行した33箇所霊場めぐりはどこも温泉地が近くて、事実上霊場と温泉が一緒になったレジャー・ツアーだった。1191年に有馬温泉で湯女が登場し、入浴客の世話と遊女の役割を担った。また、施浴(功徳湯)の裾野が広まる。
1592年には江戸で銭湯(湯屋)が開業。極端に女性比率が低い当時の江戸では湯女風呂が性に対する要求の簡易的な受け皿として広まった時期もあったが、吉原遊郭が移転の条件として湯女風呂を閉鎖させた。一般の混浴で、男性が女性にいたずらしようとして怒鳴られたことを詠んだ川柳も残されている。
1733年頃に江戸で初めての女湯が誕生し、1791年に最初の混浴禁止令が出る。江戸には最盛期で500軒以上の入り込み湯があったと著者は推計している。一方、大名では、風呂で殿様の世話をする湯殿姫が湯殿腹になるということがあった。外国人の混浴見物の記録もいくつか紹介されている。
明治新政府は混浴の習慣を徹底して取り締まる。ただ、地方で混浴の習慣は生き残った。戦後の千人風呂と「フジヤマのトビウオ」の関係のエピソードを紹介しているところもある。
温泉や入浴が、混浴という習慣とともに、わが国の歴史の文化形成において無視できない役目を果たしていたことがわかる。ユニークな視点からの興味深いアプローチの本だった。
単行本、224ページ、筑摩書房、2013/7/24