著:今尾 恵介
東京23区は、大まかには、西に台地面が多く東は低地が多いという特徴がある。
台地面については下末吉面と武蔵野面に大きく分けられる。ただ、長い年月の間に浸食と堆積を繰り返して現在のようになっており、実際は凸凹で起伏に富んでいる。
低地の方も江戸時代の埋め立てによってできたところや、地下水のくみ上げによる地盤沈下もあった。関東平野全体では関東ローム層と呼ばれる火山灰質に覆われている。
そんな東京を、地域別に歴史を意識しながら巡るという趣の本である。都心・山の手編、都心・下町編、山の手・西北編、武蔵野・郊外編の4章に分けてある。
歴史的経緯を交えながら、ここの道は台地面の尾根沿いになっている、この低地は昔は川だった、この地域は昔は水田や水車があった、昔はこういう町名だった、というような説明が続く。カラー写真が多く掲載されている。
歴史的な経緯という点では、興味深い話が時々ある。飯田橋はもともと飯田町だった。田町という名前は東京にかつて4か所あった。谷町という名前もいくつかあったが姿を消している。赤坂や永田町の台地は12万年前には海底だった場所が隆起し、そこを河川が細かく刻んで陰影に富んだ場所になった。
西麻布は路面電車の交差点だった。山手線の中で地盤が最も高いのは新宿駅(線路がもっとも高いのは代々木)。現在の新宿区西部はかつて「淀橋区」だった。王子では石神井川の水量を利用して印刷局や王子製紙の工場がかつてあった。上野は縄文時代の海岸が上野の山にそって長大な崖面になっていてそこに駅と鉄道が作られた。
目黒鎌蒲田電鉄が関東大震災後に蔵前の東京高等学校を誘致したので東工大はすぐ駅前の一等地にある。自由が丘の名前は新しく、昭和2年に「自由が丘学園」ができて、さらに「自由が丘石井漠舞踊研究所」が自ら郵便物の差出人住所に自由が丘とつけるようにしてからだんだん定着して街の名前になった。
大正時代には山手線の外側に「山手急行電鉄」という計画が立てられたことがある。
地域別にカラーの地形図があり、適時写真も掲載されている。目的がはっきりしており、地形と歴史の面から東京についての理解を深めるのに役立つ本である。
新書、208ページ、平凡社、2017/4/17