著:齊藤 俊彦
重厚で読み応え十分の本である。1979年に出版された「人力車」という本の復刻版だという。書名とカバーデザイン以外は当時のままとし、収録資料については最新の製版技術を駆使して再現性を高めたとある。様々な資料を入念に調べ、まとめ上げられている。
ビネグレットと呼ばれる人力車に似たような乗り物ものは17世紀〜18世紀のフランスにあったようだ。また、似たような人が引く車は日本にもあった。明治に入って大々的にひろがってゆく人力車の発明者は、アメリカ人宣教師のゴーブル、和泉要助ら3人、秋葉大助らの説が取り上げられている。
福沢諭吉発明説については、諭吉が米国から持ち込んだ乳母車が何人かに改良のヒントを与えたというというのが真相のようだ。人力車は6人乗りや9人乗りといった乗り合い人力車も一時あったが、主力は1人もしくは2人乗りの小型ものになり、特にスピード面で有利で車夫の負担も軽い1人乗りが主流になってゆく。
和泉要助らが人力車の製造許可を得たのは明治3年の3月。当初は客もつかずに苦労したようだが、その後3から4年の間で一気に全国に普及。わずか5年後の明治8年には人力車の数は11万台に達する。
便利で、早い。鉄道は新橋と横浜で開通した頃はまだかなり高く、人力車にはコスト的にも太刀打ちできた。明治5年からはじまる明治天皇の全国行幸とそれに伴う道路の改修・建築が追い風になり、商取引の活発化などでコミュニケーションのエリアが拡大してゆく社会のニーズにうまくマッチした。
交通手段も電話も電報も郵便もそれほど十分に発達していない頃に、人力車は重要な移動手段として社会に受け入れられ浸透してゆく。明治21年には全国の人力車の数は最大の21万台にまで達する。
生産数は増え、バネ、幌、泥よけ、ゴムタイヤなど様々な改良が加えられ、途中から国内では禁止されて輸出用だけになったものの美しい蒔絵などが描かれたものもあった。
製造工程は洗練され、分業化され、部品メーカーも育つ。代表例として、秋葉大助商店、西賀藤三郎商店、伊藤竹三郎商店が紹介されている。東南アジアと西南アジアを中心に輸出の需要も増える。輸出は中国商人が介することが多かったようだ。
車夫は、「おかかえ」「やど(車宿のひきこ)」「ばん(駐車権を持っている車夫)」「もうろう(ばんに加入していない流しの車夫)」の大きく4種類に分けられる。また、自ら人力車を所有する者と、借りて日銭を稼ぐものがあった。
身体が健康であれば車夫になるのは難しくなく、学歴もいらないから健康な男子の仕事の受け皿としては好適で、維新後商売などでうまくいかない元足軽などが車夫になる例も少なくなかったようだ。
当初未整備だった法律やルールも整い、組合も作られ、税金も課せられる。快走を続ける人力車相手に、江戸時代から続く駕籠かきは猛烈な勢いで淘汰されてゆく。
一方、様々な問題もおきる。現代のタクシー代と同じく人力車代はお金の無駄遣いという主張がおこなわれ、危険だとか、健康に良くないといわれ、さらには馬や牛ではなく人が人に引かせるということが西洋人から非難の対象にされた。
快進撃を続けた人力車にも影がしのびよる。まず、全国的な鉄道網の整備促進によって、長距離の需要が無くなる。さらに市電が各地で作られたことが市街地中心に商売を行っている人力車に大きな打撃となった。これらに対して人力車は相対的にコストにおいても苦戦を強いられる。特に市電の均一運賃性は打撃となった。
それでも、戸口から戸口への移動の手段としては残ったが、自動車の普及によるタクシーの登場と自転車の普及が追い討ちをかける。輸出も国内から15年遅れくらいで頭打ちとなってゆく。車夫達は各地で騒動を起こして抵抗したが、時代には勝てない。若い車夫はタクシーへ転業したり満州開拓団へ応募したりする。そして、人力車及び車夫たちは急速に姿を消してゆく。
人力車は今は観光地や一部の博物館で見かけるだけのものになっている。しかし、このノスタルジックな乗り物が、かつて近代日本の黎明期に果たした役割の大きさを、本書を読みながらつくづくと理解した。そして、人々を乗せて各地を走り回り、やがては新たな交通手段に淘汰されていった名も無い車夫達や製造職人たちの運命についても想いをめぐらせずにはいられなかった。興味本位で手に取った本だったが、大変意義深い復刻であると思う。
単行本、358ページ、三樹書房、2014/6/1