密林の図書室

人生は短く、経験からのみ得られることは限られます。読書から多くのことを学び、アウトプット化も本との対話の一部として大切なものだと考えてきたので、このブログを立ち上げて日々読んできた本の備忘録として活用しています。

「この世界の片隅に」のような悲劇を日本中に生んだ、アメリカの日本焦土化作戦の詳細。『日本空襲の全貌』

編集:平塚 柾緒

 

 読んでいて、やりきれないせつなさがこみ上げてくる。第二次世界大戦におけるアメリカ軍の日本本土爆撃についてまとめた本である。

 米軍が事前の偵察や戦果の確認用に撮影した写真が数多く掲載されており、同時に、爆撃の被害に遭った各都市の被害状況についてもひとつひとつ詳しく解説されているのが特徴である。

 B29を完成させたアメリカは、まず中国の成都に爆撃拠点を作り、昭和19年6月15日の八幡製鉄所空襲を皮切りに九州北部への爆撃を開始する。そして7月~8月にサイパン、グアム、テニアンを占領したアメリカ軍はここに飛行場を作り、11月24日にマリアナ諸島からの日本への爆撃を開始する。

 しかし、当初第20航空軍を率いていたハンセル准将が指揮した軍事施設や軍事工場を中心とする「精密爆撃」は十分な成果を上げられなかったため、昭和20年1月21日付けでドイツや中国で「無差別爆撃」作戦を行った実績を持つカーチス・E・ルメイが指揮をとる。その結果、高性能爆弾ではなく焼夷弾によって人と建物を焼き払う無差別攻撃が作戦方針の中心となり、3月9日深夜に大量に焼夷弾を積んだ334機のB29が出撃して10日の東京大空襲が実行される。

 ルメイ少将は、東京大空襲を皮切りに、わずか10日間の間に名古屋、大阪、神戸に対する夜間無差別爆撃を実施した。そして1945年6月半ばまでに、これらに横浜、川崎を加えた6大工業都市を壊滅させてしまう。

 空襲はさらに続き、第1位の東京から180位の熱海まで人口が多い順に優先順位をつけて64都市を焼き払った。ただし、京都は原爆投下候補として回避された。奈良が攻撃を受けなかったのはリストの順位が80番目であったために順番が来る前に終戦になったからである。

 ちなみに、米国側の思惑から皇居は攻撃目標から外されたが誤って爆弾が投下され被害を受けたことがあった。

 無差別爆撃で使われた焼夷弾は、弾筒部分が長さ50.8cmx直径7.6cmで重量2.7kgのM69集束焼夷弾である。19個x2段に束ねて一つの爆弾とする。投下されると束ねていた帯が解けて布製の1mの長さのリボンが飛び出し、落下時の揺れを軽減しながらそのリボンにも火が点く。着地によって5秒以内にTNT火薬が爆発してマグネシューム粒子によってナパームに点火する。そしてゼリー状のナパームが30m四方に飛び散って周囲を火炎で包み込む。

 当時の日本は工場、倉庫、住宅の90%以上が木造建築であったため、焼夷弾によるじゅうたん爆撃の被害は甚大だった。

 日本側では空襲に備えてバケツリレーなどの防災体制を敷いていたが、このような大規模空襲には無力で、消火活動にこだわって踏みとどまろうとしたことが住民の逃げ遅れを招いて当初の被害を大きくした一因になった。福岡は、米軍が事前にまいた空襲を予告するチラシに対して憲兵が「デマに惑わされてはいけない」と市民の避難を抑制した結果、被害が大きくなるということもおきたようだ。

 また、一部で奮戦したり体当たり攻撃が行われたものの、日本の防空システムは1万メートルから侵入してくるB29にほとんど太刀打ちできなかった。本土決戦に備えて飛行機を温存することも行われた。

 原爆投下目標としては、小倉、広島、新潟、京都が選ばれた。投下目標責任者であったグローブス少将は第一目標を京都にすることにこだわっていた。しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことがあるスチムソン陸軍長官が反対して2人が対立。スチムソンは空軍参謀総長に出世していたヘンリー・アーノルド大将に直訴し、結局、京都に代わって長崎が候補としてトルーマン大統領に承認されることになった。

 その上で、まず広島へ原爆が投下され、次の目標は小倉と決まった。実際、昭和20年8月6日に「ボックス・カー」と名づけられたB29は小倉の上で3回もプルトニウム型爆弾の爆撃体勢に入った。しかし、雲に邪魔されてどうしても目視照準ができず、次の目標である長崎に向かった。

 ちなみに、長崎に原爆を投下したこの「ボックス・カー」は、小倉上空でかなり燃料を使ってしまったために直接テニアン島に戻れなくなり、沖縄の読谷飛行場に緊急着陸している。

 最高時速580kmで航続距離が7000km以上もあり、武装も強力なB29 は「超空の要塞(Super fortress)」といわれた。アメリカはこの爆撃機の開発に30億ドルを費やしたが、この金額は当時の日本の国家予算の60%に相当する。

 ただ、B29は故障が多かった。米第20航空軍の「日本本土爆撃概報」によると、248日間にわたって行われたB29の本土空襲中に失われた機体は合計319機だが、そのうち空中戦によるものは134機に過ぎず、その他の理由のものが185機とそれよりも多い。

 護衛戦闘機用及び中継基地として激戦の末に確保した硫黄島へ不時着したB29はのべ2251機にものぼったという。

 空撮写真とともに記載されている各都市の被害状況が痛ましい。そこには大勢の人がいたのだ。日本人として、けして忘れてはいけない記憶である。艦砲射撃や艦載機による空襲、機雷投下による海上封鎖、さらには最初のドーリットル空襲についても触れられている。尚、ルメイは戦後に航空自衛隊の育成に貢献したという理由で日本から勲一等旭日大授章をもらっているそうだ。

 

単行本、191ページ、洋泉社、2015/2/26

 

日本空襲の全貌

日本空襲の全貌

  • 作者: 平塚柾緒
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2015/02/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)