著:牟田 和恵
数年前に出版された本だが、上級官僚や地方の政治家まで次々セクハラ辞任に追い込まれている昨今のニュースを照らし合わせてみるにつけ、この本で説いている内容の重要性はむしろ増しているように思われる。タイトルはウリを狙ったようなノリのものだが、中身の方は、とても真面目に書かれている。
絵に描いたようなセクハラ男は滅多に存在しない。むしろ、セクハラで訴えられる男の多くは、家庭を大事にする良識人だったりする。
実際のセクハラの多くは「グレーゾーン」のものが多く、このグレーゾーンも広い濃淡が存在する。そして、グレーゾーンのセクハラは、その後の対処によってどちらにでも転ぶ。
ハラッサーの多くは悪意がない。合意の恋愛で始まったこともセクハラになることがある。「俺は真剣なんだ」と言っても免罪符にはならない。女性は、はっきりノーをいえないものだということを念頭に置いておかないと、反応を勘違いすることになる。
ちら見はOKだが、女性の体をじっと見つめて上から下まで視線を動かすのは「エレベーター・アイ」といって、典型的なセクハラ。褒めているつもりでもセクハラになることがある。一方、「マッサージしてあげよう」というような最初からあやしいものも存在する。少し前には、教え子にセクハラする度に離婚してその教え子と結婚するを繰り返していた大学教授もいたという。
職場でセクハラ事件を耳にしたときの反応は男性と女性で大きく違う。痴漢事件では、触ったか触っていないかという一瞬一時の行為の事実性が争うポイントになるが、セクハラは長い期間に積み重なった様々な事実に基づく総合判断となることが多い。弁護士でもセクハラ事件に理解のない人がいることは留意すべき。
セクハラという言葉もその認識もかなり定着してきたといえる。ただ、ひと通り読み終え、「こ、こんなことまで、セクハラになるのか」というケースがあることがわかる。職場や学校の人間関係の中で男性が女性に手を出すのはあやうい時代になったと思う。ちょっと軽率なことをすれば、簡単にアウトになると思った方がよさそうだ。
新書、224ページ、集英社、2013/6/14