密林の図書室

人生は短く、経験からのみ得られることは限られます。読書から多くのことを学び、アウトプット化も本との対話の一部として大切なものだと考えてきたので、このブログを立ち上げて日々読んできた本の備忘録として活用しています。

自主規制の空気を作り上げていった大日本帝国の巧みな情報規制政策。『空気の検閲 大日本帝国の表現規制』

著:辻田 真佐憲

 

 戦前・戦中の大日本帝国における検閲制度の実態について書かれた本。その中でも大きなテーマになっているのは、この本のタイトルからも察しがつくように、検閲制度は実際の検閲そのものだけでなく、検閲の主担当だった内務省の検閲機構を中心として、「こういうことは書くなよ」という空気を作り上げることで出版社や新聞社などに自主規制させて回していたところがかなりある、ということである。さらには、以前はOKだったものが時代の空気が変わったことでダメになったり、軍や特高の介入によってややこしい事態も生じていたことも説明されている。

 

 実際、内務省の検閲担当者の人数は圧倒的に少なかった。新聞、雑誌、ちらしのようなものまで、あらゆるものが検閲の対象になっていたし、政治的なものだけではなく、風俗的なものも取り締まりの対象になっていたから、検閲の仕事は激務を極めたようだ。

 そこで、官僚たちも知恵を絞り、大正時代には「内閲」制度によって内々にゲラ刷りをチェックする習慣が始まる。分割還付と呼ばれる制度も始まる。「注意処分」も多用される。

 言論側はこのような措置を通じて対応の負担を軽くすると同時に、具体的に基準を理解することができた。皇室尊厳冒涜は特に厳しく、チェックする側も見落としがあると大変なので気が抜けなかったようだ。

 

 軍事・外交での情報の秘匿性に関しては、「新聞紙法」によって、陸軍大臣海軍大臣外務大臣・検事に記事差止権限があったが、これも本来その権限があるわけではない内務省が治安維持などの名目で肩代わりし、示達・警告・懇談の3つを使い分けながらコントロールしていた。特高が新聞や雑誌の下読みを行うという分担もあった。

 

 1930年代は検閲体制が強化される。1932年に警察庁の特別高等課が特別高等警察部となる。内務省が新庁舎になり、検閲人員が増え、「出版法」が改正され、1936年には「不穏文書臨時取締法」によって、怪文書やビラの取り締まりも強化される。

 朝鮮では朝鮮総督府警務局図書課が検閲を担当し、台湾では台湾総督府警務局保安課図書掛が実務を行っていた。植民地での検閲は内地より厳しいものであったようだ。

 

 日中戦争がはじまると、検閲はさらに厳しくなる。「判定要領」が登場して時代とともに細かくなり、それ以外にもいろいろな検閲標準、禁止事項、注意事項が発令され、都会の主要紙8社と検閲官の間に直通電話が引かれた。このような中で内面指導や自主検閲も磨かれてゆく。

 村役場が出す村紙も取り締まりの対象になり、戦時体制の中で風俗描写や風俗関係の広告も浄化させられる。あまりに取り締まりのルールが乱発されたおかげで、特高憲兵逓信省が許可したものを問題にするといった混乱も生じる。その後、検閲は情報局と内務省で分担する形をとる。

 

 太平洋戦争突入はさらに検閲の強化につながってゆく。帝国陸海軍による大本営発表が行われ、内務省の検閲機構は報道機関に対する内面指導を徹底する。日中戦争前には全国で1000を超えていた新聞は1942年末には54紙に整理される。

 ただし、陸軍の将校が語った記事が内務省に発禁処分されたり、東条英機を揶揄した中野正剛の「戦時宰相論」の扱いなど、陸軍と内務省・警察は仲が悪かった。有名な「敵が飛行機で攻めに来るのに竹槍をもつて戦い得ないのだ」の記事も、内務省はOKを出していた記事であり、背景には物資分配をめぐる陸海軍の対立があったようだ。

 

 いずれにせよ、最終的には大日本帝国の検閲制度は、全体像がわかりにくい極めて入り組んで膨れ上がったものになった。しかし、内務省の検閲機構を中心とした検閲体制は、問題になる表現はほとんど出てこない自主規制と忖度の行き届いたものになった。「検閲官が軍部の介入に憤ったのも、この仕組みを踏み荒らされたからだ」と、著者は述べている。

 

 時流に合わせたマーケティング的な理由だと思うが、忖度を強調しすぎな気もする。ただ、戦前戦中の検閲制度について知るには悪くない本だ。

 

新書、312ページ、光文社、2018/3/15

 

空気の検閲 大日本帝国の表現規制 (光文社新書)

空気の検閲 大日本帝国の表現規制 (光文社新書)