著:板谷 敏彦
戦争にはカネがいる。ましてや、近代戦はおびただしい兵器と物量を必要とするため、カネがなければ勝てない。実は、日露戦争もそうだった。この本は、日露戦争について、国際的な資金調達合戦の視点から解説した書籍である。
同時に、資金調達及び証券市場という面から、日本とロシアだけでなく、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス及びそれらの国の人々が、様々な利害と思惑を交錯させながら、この戦争をどのように見て、その評価がマーケットでどのように変わっていったかについても、明らかにしている。
不可避となったロシアとの戦争を直前に控えながら、明治時代の日本にはカネが無かった。
しかも、開戦後の実際の戦費は予想をはるかに超えて膨らむ。日本政府は増税や国内債券発行を行うが、そのような国内の金策だけでは全く足りない。武器弾薬や鉄などの輸入品への支払いも必要。加えて、金本位制という足かせがある時代である。
結局、日本の勝利に懐疑的な外国から、なんとか多額の資金を調達するしか方法はない。持ち前の行動力と英語力を武器にする高橋是清がこの大役に任命され、やはり英語力を評価されて後に日銀総裁となる深井英五が高橋に同行して海を渡る。
当時のロシアの国力は日本の約3倍。一方、近代化を歩みはじめたばかりの東洋の小国の資金調達は難航する。欧米の有力者とのコネも不十分。日本は開戦直後にもかかわらず、早くも正貨が尽きかける状況に陥ってしまう。
高橋是清は海外向けにハッタリを語るが、終戦までに結局4回行われた大規模な公債発行のうちの最初の2回は、日本にとってかなり不利な条件となってしまう。
是清は工夫を重ねて資金調達に奔走するものの、英米市場の日本への評価と本国からの指示との板ばさみで苦しむ。日本の世論の反発。鴻緑江の戦い。ロシア海軍の名将マカロフの死。旅順での日本軍の苦戦。公債追加発行の噂といった戦況や出来事にマーケットの評価は揺れ動く。
外国からの資金調達に苦しんでいた点はロシアも同様。しかし、日本よりはロシアの方が評価が高く、市場がつけるロシア公債の金利は常に日本よりも低かった。しかも、フランスやドイツは自国の安全保障への思惑からロシアへの戦費供給を優先する。
しかし、そんな苦しい状況の中で高橋是清は、ユダヤ人ヤコブ・シフなどと直接交友を深めてパイプを作ってゆく。そこに、北海海上でバルチック艦隊がおこした「ハル事件」が発生し、ロシアはイギリスの世論を激怒させる。加えて、ロシアでは「血の日曜事件」が勃発する。
奉天会戦は日本にとって決定的な勝利にはならなかったものの、一向に勝てない上に大きな国内問題も抱えるロシアに対し疑念を深めたドイツとフランスは、これを機にロシアに対する資金供給のパイプを閉ざしてゆく。ドイツにいたっては方針を転換し、戦後をにらんで中立の立場を明らかにするため、日本への資金提供も申し出るようになる。
明らかに戦況が日本に好ましい状況になった中で行われた第3回の公債募集では、日本の債券の人気が沸騰する。発行条件も大幅に改善する。日本海海戦の後には、日露の公債の金利差もとうとう無くなる。しかも、ロシアは新規の資金調達のアクセス手段を失ってしまう。
しかし、それでも日本の金策は苦しい。戦線が広がる度に出費は増加する。もうこれで当面十分だろうと思っていた是清の元に、4回目の公債募集の活動を行うようにと本国から指示が飛ぶ。
資金調達という面から見ても、日露戦争は日本にとって本当に薄氷を踏むような勝利であったことがよくわかる。また、日本にカネを貸した人々や国も、けして単なる善意などではなく、冷徹な損得勘定や利害の渦巻く市場の理論を優先してそのようにしていたこともよくわかる。
それにしてもマーケットは正直だ。戦争の終盤にさしかかると、まるで両国に講和をうながすかのように、日本とロシアの公債の金利が共に上昇してゆく。
借りた金は返さなければならない。勝利はしたが、賠償金が取れなかった日本。戦後には大きな借金が残る。なんとか勝ったとはいえ、ロシアの脅威も消えたわけではないし、元々西洋列強とは軍事力に大きな差があったから軍事費も減らせない。
結局、戦後の一般会計の3割は公債の償還に、3割は軍事費に消えてゆく。軍事費を社会保障費に置き換えれば、この比率は現代の日本の一般歳出の比率に似ているそうだ。
ただ、桂太郎と西園寺公望の時代の日本は新規債券を発行しない方針を貫く。南満州鉄道への出資をめぐるアメリカを代表する投資家ハリマンとの「ハリマン事件」についてもページを割いている。
この本が歴史を専門とする学者や作家が書いたものと比べて特徴的なのは、長く証券業界で活躍して金融に明るい人が書いているという点である。金融に詳しい人が書いただけあって、その強みが随所に活かされている。
全体的に、帯に記されている「もうひとつの坂の上の雲」というキャッチフレーズは、けして大げさではないな、と思った。何より、大変面白い。おススメである。
単行本、460ページ、新潮社、2012/2/1